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    やうやく三十に手が届いたばかりだが、苦労したのとその無骨な外貌のために年齢よりは四つ五つ老けて見える。がつしりと人並外れて幅広い肩はむくれ上るやうに肉が盛り上つて、何だか猪首のやうな印象を与へた。

    だが、あの感慨は、深まりかけていきなり出鼻を折られた感慨は房一の中に何かしら尾を引いて残つていた。それは人間の身体が静かになり温あたたまつて来ると動き出す虫のやうに、どつかでもぞもぞしはじめ、ひとりでに歩き出し、遂ひにあたりにひろがつて、知らぬまに房一の身心をすつぽりと包んでしまつた。――開業してから一年あまりになる!その一年目はもうとつくに、二月近くも前にいつとなく、こつそり過ぎてしまつた。それは、あの季節の曖昧な変化のためだつたらうか。それなら、房一はそのことを今日盛子に云はれるまではすつかり度忘れしていたのだらうか。いや、決して!彼ははつきり覚えている。去年の九月にあすこの中庭の土塀のわきで無花果いちじゆくが色づいていた、それは今年も同じやうに色づいた。ちがつたのは、今年はうんと実がなつて盛子と二人では喰べきれなかつただけである。あのとき老父の道平と二人で坐つた座敷はまだがらんとして落ちつきを欠いていたが、今は別に家具がふえたわけでもないのに、何となくしつとりし、人の匂ひが浸みこみ、あのときのやうに乾いていないだけである。それは何も変つていないことである。同時に大した変り方である!吾々は暦の上で立春だの立秋だのいふ区別をして、それを紙片にはつきり判るやうに印刷している。だが一体、春はいつやつて来るのだらう、冬はいつやつて来るのだらう。温かつたり寒かつたり、暑かつたり涼しかつたり、それはとりとめもない曖昧のうちに何かしらどんどんやつて来、どんどん去つて行くのである。吾々は紙に印刷した日附だの文字だのでさういふものを捉へようとするが、捉つかまつた試しはめつたにない。それなら、房一が盛子の何気ない一言ですつかり感動してしまつたのはどうしてだらう?

    「うん」

    「おい」と盛子を呼ぶ声がした。

    「フム」

    と、横合から老父の道平が房一に寄り添つて来た。

    答へながら、房一は少からず面喰つていた。声をかけられるその瞬間まで、彼は酒造家の相沢を何となくでつぷり肥つて、木綿縞の袷あはせの袖口から肉づきのいゝ手首を喰はみ出させた、紺の前掛でもした男を想像していたのだつた。それが乗馬ズボンをはいて現れようとは――。

    練吉の切れの長い目は片時もぱちぱちをやめなかつた。その度に、せきこむやうなどこか菓子をせがむときに子供の駄々をこねるのを思はせる調子の声が、もつれ気味につづいて出た。その青いと云ふよりは冷たさを感じさせる色白な額には、やはり上気したやうな紅味が浮んでいた。

    「――さうだな」

    そして、徹夜の仕事を連続していると、視神経の疲れが何よりの悪刺戟になることがのみこめてくる。もっとも、私は強度の近視のところへ、遠視が加わったから、メガネをかけても外してもグアイが悪いのである。それがメガネのツルを支えている鼻梁の疲れを代表者として頭の廻転に鈍痛を加えてくるのである。

    と、房一は加藤巡査に云つた。御苦労だが、加藤巡査には角屋のところで本署の自動車を一先づとめてもらひたい。こつちは自分が引受けるから、こゝへ乗りつけないやうに何とか待たせていたゞきたい、その間にこちらの始末をつけ、自分が責任者になつて出向いてよく話をするから――。

    鍵屋へ招かれた時から房一の頭を占めていた考へは、その席で恐らく河原町の人達が彼をどんな風に見ているかがはつきり判るだらうといふことだつた。かういふ集りでは皆が皆自分の据ゑられる席の上下を可笑しい位に気にする習慣を房一はよく知り抜いていた。

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